多くの問いを生み出すことで思考を刺激し、
日々のデザイン活動を豊かなものにしよう
ゲルト・バウマン Gerd Baumann グラフィックデザイナー / ドイツ
会議のテーマ「VISUALOGUE-情報の美 (VISUALOGUE: quality of information)」から、何をイメージされますか?

「VISUALOGUE」という言葉は、VISUAL (目で認識できる) と、ANALOGUE (同等、並列) の二つの言葉の組み合わせととらえています。人類のコミュニケーションの長い文化史において、記録の伝達とはヴィジュアル(岩窟壁画や洞窟絵画)の助けを借りて始まり、それが1000年をかけて縮小され、繰り返し使われることによって、判読可能な一連の記号が創られてきました。現在のデジタル社会では、一見、再現技術や操作技術の可能性が限りないように見えるため、大量のヴィジュアルが前面に押しだされています。
だからといって、話し、書く能力は次第に消えていくでしょうか?またそれに伴い、情報を読み、解釈し、評価する能力もなくなってしまうのでしょうか?クリエイティヴの過程においては素材の熟考や選択、検証に注意を払うことが必要であり、そのプロセスには時間がかかるために伝達速度の修正を犠牲にします。「VISUALOGUE」という観点から見ると、情報の質とは、情報を補ったり明確にしたり、また矛盾を明らかにするために言葉とヴィジュアルを関連づけて用いることを指すと考えます。
ドイツに「一枚の絵は千の言葉よりも語る」という諺があります。これに意義を唱える人はいないと思いますが、逆に言うと、一つの言葉は千のヴィジュアルよりも多くを語るとも言えるのです...。

あなたの活動における最近のテーマ、あるいは最近のあなたの中にある「問い」は何ですか?

職業上か、個人的か?生活と仕事に境界線を引くことなどもはやできません。職業=個人であり、個人=職業なのです。最近ではブッシュ大統領や同盟国によるイラク攻撃 (私はあえて「アメリカ人」とは言いません) には個人的に大きな関心を持っています。力や金にとりつかれ、国際法を無視する政治家が、知恵の代わりに無知を、民主主義の代わりに独裁主義を、対話の代わりに独白を、友好の代わりに敵意を、道徳の代わりに力を、教育の代わりに愚かさを、真実の代わりに嘘を作り出し、私たちが築いてきた貴重な民主主義の功績が軽率に壊されてしまうのではないかと非常に懸念しています。私の望みは大きいのかもしれませんが、アメリカやその他の国々の民主的で賢明な人々が、暴力の連鎖を終えることを望んでいます。

今回の会議に対し、どのような期待をお持ちですか?または、どのような成果がもたらされることを期待しますか?

いわゆる近代の情報化社会において、メディアの力は確実に増しています。伝達スピードが人間の認知能力と衝突するにつれて、情報の質や量は識別不可能になるでしょう。この会議が、情報の質について、デザイナーの視点からだけでなく幅広い視野を含む議論の場となることを望みます。将来、現実と仮想現実をどう区別するのか?人間の、情報に対する知覚を操作するのはどれほど容易か?我々の考えや行動はいかに容易に影響を受けるものなのか?投げかけられる多くの質問にまずは取っ掛かりとなる回答が提示され、それが私たちの思考を刺激し、日々のデザイン活動を豊かにしてくれることを期待します。

会議に参加するデザインを学ぶ学生や若いデザイナーへのメッセージ

技術やスピードを司る新しいメディアが優位を占めつつあり、本来重要であるべきコミュニケーションが二の次、または無視されてしまうほどです。内容と形式を、また何?なぜ?どのように?という点を注意深く見分けなければ、知らぬ間に無用な情報の洪水の中で窒息してしまうでしょう。

クライアントに対し、これまでどのようなパートナーシップをとられてきました か?また/あるいは、今後どのような関係を築きたいとお考えですか?

クライアントと人々の関係は、今これを読んでいるあなたと私のような関係です。遺伝子も経験も違う。興味や嗜好も異なる場合がある。しかしそれが対話に面白さや活気を与えるのです。調和をもたらすこともあれば対立することもありますが、話し合うことで解決が可能です。私が常に願ってきたのは、互いに尊重し、相手の能力や可能性を信じた上でのコミュニケーションです。コンセプトやアイデアを展開するのに十分な経済的自由と、オープンで感受性のこまやかな雰囲気を望みます。

地域/文化的衝突、世界的な不況など課題の多い現代社会に対し、デザイナーはどのように貢献できるとお考えですか?

(下記参照)

これからの社会におけるデザイナーという職能の意義と可能性をどのようにお考えですか? デザインはほかと独立的した存在ではありません。建築、教育、物理学などと同様、所有者や、商品流通において決定権を持つ者に左右されます。したがって、私たちデザイナーは残された狭く、心地の悪い小道で旅路を続けなければならず、その景色でさえも自らで創りださなければなりません。政治家でも経済学者でも神学者でもなく、私たちはデザイナーとして、単なるかたちのデザイン以上を見通すように互いに励まし合い、意識的に、また繊細に知識や技術を用いて先入観を探り、必要であれば新しいコンテンツを検討する役割、そして義務を担っているのです。